ブログ童話館アートメルヘン アクリル水彩「傷心」(2019.11.29.30加筆)
ブログ童話館アートメルヘン
アクリル水彩
(2019.11.29.30加筆)
「傷心」
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この作品は、
2011.11.30日に
アップした作品ですが。
バンクシーの最近の作品で、
英国王立芸術院の公募展に
偽名で応募して落選したものに、
この作品と似たものがあります。
どの様な作品かと言うと。
ハート型の風船に
バントエイドが貼られた作品なのですが
その作品は選にもれてしまったのです。
しかし、
その後に、それがバンクシーの作品で
あったと分かると美術館側は慌てて、
その作品を展示する事にしたそうなのです。
おかしいですよね。
その作品は、選にもれたはずなのに
バンクシーの作品であったと分かった
とたんに手のひら返しをして選考結果も
無視して展示したいと成る。
同じ作品なのに、無名の者の作品だと
選考に落ちて、有名な者の作品だったと
分かると選考結果は関係ないと成るのです。
選考とは何のために有り、
いったい何処の何を見ているのでしょうか?
選考とは名ばかりで、
実際は作品の内容ではなくて、
有名であるとか知り合いであるとかを
選考基準にしているのではないのかと
疑われても仕方が有りませんよね。
それで
バンクシーはどうしたのかと言うと。
申し出をきっぱりと断ったのか?
それとも、
申し出に応じて作品を展示したのか?
みなさんは、どう思われますか。
その結果は、
バンクシーは申し出を受けて
作品を展示したのです。
これは、
美術館の権威をバンクシーの人気が
上回ったという事で、バンクシー自体が
美術館を上回る権威に成ったとも
いえる事なのですが。
作品自体は同じなのでしょうから
美術館側の選考に対する矛盾が
明らかにされたとも言える訳です。
バンクシーは、
以前よく勝手に美術館に自分の
作品を展示したりしていましたが。
いったん選にもれた作品でも、
バンクシーの作品だからと展示する事には、
この社会や人が一体何によって
支配されているのかと言う風刺や皮肉が
含まれていると思うのです。
それは、
受け取る側の者にとっても
問われている事なのだと思います。
作品を観る時に、
その作品に対する評価ではなく、
その権威や名前の優劣だけで観ては
いないのかという事をです。
バンクシーの、
おこなっている批判や皮肉は
この社会の本質を
言い当てていると思えるのです。
この社会や人を支配し動かしている
資本的な価値観が果たして本当に
一番大切なものなのか。
或いは、
それよりも大切なものがあるのか。
バンクシーが一貫して
問いかけて訴えかけている事は
そこであり一番大切な部分なのですが。
バンクシーのアートは、
一見突飛な行動だけが大きく
報道されてしまう事によって
本質の部分が疎かにされているとも
言えることで。
バンクシーの作品や行動は、
実際は深い考えの上におこなわれている
芸術活動だという事が見過ごされていると
言えるのではないでしょうか。
私はバンクシーが、
その芸術活動によって
凝り固まってしまっている
権威や有名だからとか無名だから
とかの無意味なものを壊して
しまっているのはとても痛快で
愉快な事だと思っています。
そして何より嬉しいのは、
バンクシーの作品と私の作品の
発想が似ているという事です。
英国王立芸術院の公募展に
偽名で応募して落選したものに、
この作品と似たものがあります。
どの様な作品かと言うと。
ハート型の風船に
バントエイドが貼られた作品なのですが
その作品は選にもれてしまったのです。
しかし、
その後に、それがバンクシーの作品で
あったと分かると美術館側は慌てて、
その作品を展示する事にしたそうなのです。
おかしいですよね。
その作品は、選にもれたはずなのに
バンクシーの作品であったと分かった
とたんに手のひら返しをして選考結果も
無視して展示したいと成る。
同じ作品なのに、無名の者の作品だと
選考に落ちて、有名な者の作品だったと
分かると選考結果は関係ないと成るのです。
選考とは何のために有り、
いったい何処の何を見ているのでしょうか?
選考とは名ばかりで、
実際は作品の内容ではなくて、
有名であるとか知り合いであるとかを
選考基準にしているのではないのかと
疑われても仕方が有りませんよね。
それで
バンクシーはどうしたのかと言うと。
申し出をきっぱりと断ったのか?
それとも、
申し出に応じて作品を展示したのか?
みなさんは、どう思われますか。
その結果は、
バンクシーは申し出を受けて
作品を展示したのです。
これは、
美術館の権威をバンクシーの人気が
上回ったという事で、バンクシー自体が
美術館を上回る権威に成ったとも
いえる事なのですが。
作品自体は同じなのでしょうから
美術館側の選考に対する矛盾が
明らかにされたとも言える訳です。
バンクシーは、
以前よく勝手に美術館に自分の
作品を展示したりしていましたが。
いったん選にもれた作品でも、
バンクシーの作品だからと展示する事には、
この社会や人が一体何によって
支配されているのかと言う風刺や皮肉が
含まれていると思うのです。
それは、
受け取る側の者にとっても
問われている事なのだと思います。
作品を観る時に、
その作品に対する評価ではなく、
その権威や名前の優劣だけで観ては
いないのかという事をです。
バンクシーの、
おこなっている批判や皮肉は
この社会の本質を
言い当てていると思えるのです。
この社会や人を支配し動かしている
資本的な価値観が果たして本当に
一番大切なものなのか。
或いは、
それよりも大切なものがあるのか。
バンクシーが一貫して
問いかけて訴えかけている事は
そこであり一番大切な部分なのですが。
バンクシーのアートは、
一見突飛な行動だけが大きく
報道されてしまう事によって
本質の部分が疎かにされているとも
言えることで。
バンクシーの作品や行動は、
実際は深い考えの上におこなわれている
芸術活動だという事が見過ごされていると
言えるのではないでしょうか。
私はバンクシーが、
その芸術活動によって
凝り固まってしまっている
権威や有名だからとか無名だから
とかの無意味なものを壊して
しまっているのはとても痛快で
愉快な事だと思っています。
そして何より嬉しいのは、
バンクシーの作品と私の作品の
発想が似ているという事です。
Haruo
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